− 薩摩の遺産が紡ぐ物語 −

薩摩と言えば、多くの人にとっては江戸から遠く離れた地方都市というイメージが強いかもしれません。しかし、日本が世界の先進国として認識されるようになった歴史を掘り下げてみると、「薩摩」がいかに重要な役割を果たしていたのかが見えてきます。

2015年7月、ユネスコは日本の近代化に大きく貢献した遺産を「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録しました。この遺産のなかには「旧集成館」「関吉の疎水溝」「寺山炭釜跡」といった鹿児島のものも含まれています。

これらの世界遺産登録は、どのようにして日本が近代化したのかを知る貴重な遺産でもあります。今回登録された多くの遺産は、日本が国際社会で独自の地位を築くための基盤を形成したものであり、未来の世代にとっても重要な遺産だと言えるでしょう。

− 薩摩のチカラ ‐ 島津斉彬 −

一般的に日本の近代化は、ペリーが率いる黒船来航とともに始まったとされていますが、実はそれよりも前から日本国内では革新の動きが既に始まっていました。この革新の中心にいたのが、当時の薩摩藩を治めていた島津家28代当主・島津斉彬です。

斉彬は1851年に藩主に就任すると、西洋列強の脅威に対抗するため、藩の軍事力と経済力の大幅な強化に着手します。その戦略の中核に位置づけられたのが、「集成館」と呼ばれる一大工場群でした。この施設は仙巌園周辺の広大な竹林を切り開いて建設され、西洋の技術を取り入れた多岐にわたる工場が集約されました。

斉彬が西洋の技術を積極的に取り入れるようになった背景には、様々な人物との交流が影響しています。斉彬の曽祖父である島津重豪からは蘭学を学び、海外の事情や技術について幅広い知識を習得していたこと。また斉彬が藩主就任前から、緒方洪庵や渡辺崋山、高野長英などといった当時のトップクラスの蘭学者たちと交流を深めていたことから、西洋の最新技術を取り入れた革新的なアプローチが可能となっていったのです。

− 国際緊張と日本近海の危機 −

では、なぜ西洋列強の脅威に対抗するため、藩の軍事力と経済力の大幅な強化に着手することとなったのでしょうか。

1800年代に入ると、日本近海での外国船の活動が活発になってきました。特に薩摩藩が支配する琉球や薩摩周辺の海域では、外国船の出没が日常化しており、時に英国人が薩摩領の島に無理やり上陸し、村を襲う事件も発生していました。

この時期、アジアではさらに大規模な衝突が発生していました。1840~1842年にかけてのアヘン戦争では、当時アジア最強と言われていた中国の清がイギリスに敗れるという事件が起こりました。ここから西洋列強のアジアに対する侵略的な動きが活発化していき、アジア全域に広がる西洋の影響力を背景に、日本にも深い不安感をもたらしました。

これらの事件やアヘン戦争の勃発は、幕末の日本社会に衝撃を与え、外国との関わりを避けては通れない現実を突きつけました。国際的な緊張は、日本が国際社会でどのように立ち振る舞うべきか、またどのように自国を守るべきかという問題に対する議論を加速させ、後の幕末の動乱へとつながる重要な要因のひとつとなりました。

− 近代化への道「集成館事業」−

幕末期、これらの脅威に対抗するために立ち上げられたのが「集成館事業」です。この画期的なプロジェクトは、大砲鋳造、造船、紡績といった多岐にわたる産業を展開し、日本で最も先進的な工業地帯となりました。その最盛期には1,200人もの労働者が働き、薩摩を日本の産業革命の中心地として確立していきました。

仙巌園内やその周辺地域には、当時の技術の粋を集めた施設の遺構が今も残されています。反射炉以外には、日本初の近代的紡績工場跡や造船所跡、そして隣接する神社の境内には洋式溶鉱炉の遺構が埋まっていたことが、近年の発掘調査からわかっています。これらの遺構からは、斉彬がいかに先進的な技術を取り入れ、国際的な脅威に対抗しようとしていたかを垣間見ることができます。

− 反射炉 ‐ 鉄製大砲の製造 −

斉彬は、藩の軍事力強化のために鉄製大砲の製造を最優先課題と位置付けました。この目的を達成するために、斉彬が着手したのが鉄を溶かすための反射炉の建設です。反射炉は燃焼室で発生した熱を耐火煉瓦に反射させて鉄を溶かすことから、この名が付けられました。

当時、佐賀藩が先行して反射炉の建設に成功していたため、斉彬はその技術を学ぶために佐賀藩からオランダ語の技術書を入手し、これを基に薩摩藩でも反射炉の建設を開始しました。しかし、誰も反射炉を見たことも作ったこともない中で、書物のみを見て建設するのは非常にハードルが高いものでした。

そこで活躍したのが、薩摩で昔から使われていた技術です。その一つに薩摩焼の技術があります。鉄を溶かすためには約1,500℃を超える熱が必要となりますが、この高温に耐えうる耐火煉瓦の製造には薩摩焼の高度な技術と工夫が役に立ちました。これはまさに薩摩と西洋の技術の融合です。

こうして1857年に反射炉は完成しましたが、これを成し遂げるまでには多くの挑戦と失敗を重ねました。このような中でも斉彬は「西洋人も人なり、佐賀人も人なり。薩摩人も同じく人なり」という言葉を藩士たちに投げかけ、最後まで努力を続けました。

− 寺山の炭釜 ‐ 白炭の製造 −

斉彬は、反射炉の燃焼室で燃やす燃料を確保するために、集成館から約5km離れた山地に炭釜を建設しました。薩摩には自然の石炭資源がないため、シイやカシなど木炭製造に適した常緑樹林が豊富なこの地で白炭を生産することにしたのです。

寺山炭釜は耐火性の高い凝灰岩を円筒形に積み上げ、高さ約3m、直径約5mの炭釜を建設しました。この炭釜で生産された白炭は火持ちが良く、高温を発生させる特性から、集成館内の反射炉や蒸気機関などの燃料として大いに重宝されました。

当初3基建設された炭釜のうち、1基が現存していましたが、残念ながら令和に入ってからの豪雨で崩れてしまいました。この炭釜は薩摩藩の産業革命を支える不可欠な施設として、その歴史的な価値が高いものです。

− 関吉の疎水溝 ‐ 水の革新 −

斉彬が立ち上げた工場群での動力源は白炭のほか、水も大きな動力源として利用されていました。そこで斉彬は、安定して大量の水を得るために、集成館の工場群から約7km離れた上流の川から水を引くことを計画しました。この水路の設計は、高低差がわずか8mという緩やかな傾斜を正確に管理するための技術が求められました。

建設過程では、微妙な勾配を維持するために複数のトンネルを掘り進める難工事が必要でしたが、薩摩藩の技術者たちはこの課題を巧みに克服していきました。彼らの高い技術力と創造的な工夫が、この困難な工事を成功へと導いたのです。完成した疎水溝は、集成館の工場群へ安定した水供給を可能にし、製鉄、造船、紡績などの産業活動を大きく支えました。

− 造船と日の丸の起源 −

斉彬は、外国の脅威に対抗するためには、船も必要だと考えていました。しかし、当時は大型船の建造が厳しく制限されており、造船技術は約200年間進歩していませんでした。この制約を乗り越えるため、斉彬はなんとか幕府に大型船の建造を認めさせ、1853年に船の建造に着手します。

斉彬が建造した船は3本マストの木造帆船で、当時としては最大級の排水量370t、長さ31m、大砲16門を搭載した洋式軍艦でした。その完成は1854年、ペリー来航の翌年にあたります。斉彬は「昇平丸」と名付け、船を幕府に献上し、日本の海軍力強化の基盤を築きました。

昇平丸は「日の丸」が国旗として定着するきっかけを作りました。1854年の日本の開国と同時に、外国船の増加が見られ、外国船との区別を必要としました。斉彬はこの問題に対処するため、「日の丸を日本総船印にすべき」と提案し、昇平丸が江戸に回航される際、船尾に日の丸を掲げました。これが、日本の船が国際的な海域で認識されるシンボルとして日の丸を使用する始まりとされています(異説あり)。

− 日本の機械紡績の誕生 −

薩摩藩では、造船を行っていたことから帆船の帆布用として紡績が行われていました。しかし、斉彬が西洋から贈られた糸の精巧さに触れたことで、薩摩の紡績はさらに発展することになります。斉彬はこの高品質な糸に触発され、薩摩藩内でもこれに匹敵する品質の紡績業を育てる必要があると感じたのです。

斉彬はまず、綿栽培の専門知識を持つ専門家を呼び、薩摩藩の農民に綿作を普及させました。これに加えて、綿実油の搾油所とともに機織所を建設し、地元で生産された綿を活用する体制を整えました。機織所では、水車を動力源として機械を動かし、一般の綿布よりも幅広い布を織ることができたといいます。この取り組みは、日本における機械紡績の初めての事例とされ、技術革新の重要な一歩となりました。

斉彬の死後、集成館事業は一時的に失速しますが、斉彬の異母弟である島津久光がその遺志を受け継ぎ、事業の復興に力を注ぎました。久光は斉彬が築いた基盤をさらに強化し、1867年には日本で初の本格的な洋式機械工場を建設しました。この工場は後の明治時代の産業革命における紡績業の発展に大きな影響を与え、薩摩藩の産業力向上に寄与しました。

− 集成館事業と日本の近代化 −

斉彬は、薩摩藩の経済力を強化し、文化の発展を促進するために、多岐にわたる産業に注力しました。大砲製造、造船、紡績をはじめ、ガス灯の研究、電信、写真、ガラス、焼酎製造など、その取り組みは現代にまで大きな影響を与えています。

集成館事業がこれほどまでに成功を収めたのは、西洋の技術を単に導入しただけでなく、それを薩摩の伝統技術と融合させたからです。例えば、反射炉に使用される耐火煉瓦には、薩摩焼の技術が取り入れられ、土台には日本の城造りに用いられる石垣の技術が活用されました。

さらに、斉彬は身分や出自に捉われずに人材を登用することで、幅広い層から才能を引き出しました。西郷隆盛や大久保利通など、後に明治維新の中心人物となる多くの人物が斉彬のもとで経験を積み、その能力を発揮する機会を得ました。

斉彬の取り組みは、技術的な側面だけでなく、社会全体の構造を革新する試みとして、日本の近代化の基礎を築きました。その先見の明と行動力は、今日の日本が国際舞台で競争力を持つための基盤を形成しました。斉彬の革新的なリーダーシップと広範な産業振興の努力は、日本の産業革命の礎を築き、近代日本の形成に大きく貢献しました。

− 最後に −

今回ご紹介した内容は、「明治日本の産業革命遺産」に登録された鹿児島の遺産に焦点を当てたものですが、ここで触れた事例は全体のごく一部です。この記事を通じて、斉彬の画期的な取り組みや当時の技術革新に少しでも興味を持っていただけたなら幸いです。